南溟の濤声 -戦艦 金剛 2604-

「金剛」は、大日本帝国海軍がイギリスへ発注した初の超ド級巡洋戦艦であり、最後の海外製主力艦です。2度にわたる近代化改装を経て、強靭な装甲と最高速力30ノット以上を誇る高速戦艦になりました。
大東亜戦争では、最古参戦艦にもかかわらず活躍しました。開戦時には南方攻略部隊の支援任務に就き、ガダルカナル攻防戦では日本戦艦で初めてヘンダーソン飛行場を砲撃し、レイテ沖海戦ではサマール島沖で遭遇したアメリカ護衛空母部隊への砲撃に最も貢献したと言われています。その後、台湾沖でアメリカ潜水艦の雷撃を受け、最期を迎えました。
本作品は、捷一号作戦中の昭和19(1944)年10月24日、波濤を切り裂いてシブヤン海を進む「金剛」をイメージして描いたものです。その2km後方には戦艦「榛名」、左舷2km後方には重巡「利根」、3.5km後方には駆逐艦「磯風」が、「金剛」を中心にした輪形陣を作り航行します。
終戦70周年にあたる平成27(2015)年、この作品を「金剛」の艦内神社分霊元である建水分神社に奉納しました。

作品仕様

制作年: 平成27年
技法: 鉛筆画
サイズ: 652×455mm(M15)
所蔵: 建水分神社 所蔵

巡洋戦艦 金剛

「金剛」は、大日本帝国海軍がイギリスへ発注した最後の海外製主力艦です。その発注の際、日英間で極めて異例な取り決めがなされました。それは『日本海軍の技術者を現地へ長期派遣し建造の一切を監督、調査すること』、『砲塔やその他一切の船体、機関などの図面を日本は入手し、引き続き利用して同型艦を日本国内で建造できるようにすること』という、日本側に極めて好条件なものでした。一説には、日本が過去にイギリス製の主力艦を多数保有し、それらの艦が日露戦争時に世界中を揺るがすほどの戦果を挙げたことが、その好条件に結びついた一因と言われています。日本はこの極めて有利な条件で、姉妹艦3隻を国内で建造しました。
大正2(1913)年8月16日に竣工した同艦は、日本人の手により喜望峰回り(巨艦の為、スエズ運河を通過できなかった)で横須賀へ回航されました。以後、世界最大、世界最強の巡洋戦艦として「金剛」型4隻の名は世界中に知れ渡り、日本の海軍戦力は一足飛びの飛躍を遂げることになりました。

作品仕様

制作年: 平成22年
技法: 鉛筆画
サイズ: 318×409mm(F6)
所蔵: 個人蔵

巡洋戦艦 鞍馬

「鞍馬」は、日露戦争中に「筑波」型装甲巡洋艦の強化改良版として計画されました。「筑波」型に比べ排水量を約1000トン増加させ、機関と兵装を強化し、「香取」型戦艦に匹敵する砲力を有する装甲巡洋艦として5年半もの歳月をかけて建造されました。「鞍馬」型は実験的要素を含んだ艦で、本艦は従来のレシプロ機関を積んだ最後の大日本帝国海軍の大型主力艦である一方で、日本初の三脚檣(しょう:マストのこと)を備えた艦でもあります。一方で姉妹艦の「伊吹」は、従来の単脚檣の姿でしたが、心臓部には新型のタービン機関を積んでいました。
「筑波」型と同様、後に巡洋戦艦に類別されましたが、「ドレッドノート」や「インヴィンシブル」が竣工していたために旧式艦のレッテルを拭い去れず、ワシントン海軍軍縮条約締結を受け、除籍解体されました。その副砲塔のうち2基は房総半島大房崎砲台に運ばれ、要塞砲として活用されました。

作品仕様

制作年: 平成26年
技法: 鉛筆画
サイズ: 606×727mm(F20)
所蔵: 個人蔵

海征く牙狼 -重巡洋艦 利根 2604-

「利根」は水上機の搭載能力に優れた重巡洋艦です。真珠湾攻撃に先んじて索敵機を飛ばし、ハワイ上空の気象と湾内の偵察を行ったことを始め、様々な作戦で索敵・偵察任務を遂行するなど、大東亜戦争序盤より艦隊の眼としての役割を果たしました。戦況が悪化していく中でも生き延び、内地に戻されました。昭和20(1945)年3月19日、海軍兵学校練習艦として呉に停泊中、米艦載機の空襲を受けて損傷し、能美島の海岸付近に移動しましたが、7月24日の呉軍港空襲時に再度被弾しました。更に7月28日の空襲時にも爆弾6発を受け、翌29日に大破着底し終戦を迎えました。
本作品は、捷一号作戦時、シブヤン海に入る直前の栗田艦隊の第二部隊(戦艦「金剛」を中心とする輪形陣)を描いたものです。「利根」に後続する艦は駆逐艦「磯風」、右舷側に進むのは戦艦「榛名」その前方奥は重巡洋艦「鈴谷」、両艦のさらに奥に小さく見えるのが駆逐艦「雪風」です。
平成28(2016)年に「利根」の艦内神社の分霊元である香取神宮で「重巡洋艦利根慰霊顕彰祭」が斎行された際、この作品を奉納しました。

作品仕様

制作年: 平成28年
技法: 鉛筆画
サイズ: 455×652mm(M15)
所蔵: 香取神宮 所蔵

海征く牙狼 -重巡洋艦 高雄 2604-

「高雄」は、大きな艦橋を備えた姿が特徴の重巡洋艦です。用兵者側の様々な要望と、艦隊旗艦施設を装備することを前提に建造された結果、このユニークな艦形となりました。「高雄」は完成後、近代化改装により装備を一新して大東亜戦争に参戦し、主に南太平洋で作戦に従事しました。その後も各方面で目まぐるしく様々な任務につき、昭和19(1944)年10月には捷一号作戦に参加しました。レイテ湾に向かう途上、アメリカ潜水艦の雷撃で損傷し、シンガポールに回航されました。そこでイギリス潜水艇XE-3の雷撃で行動不能となり、終戦を迎えました。戦後、イギリス軍に接収され、昭和21(1946)年10月29日に海没処分されました。
この絵は、あ号作戦直前の訓練シーンをイメージして描いたものです。主題の「高雄」、その後ろに「鳥海」、絵の中では見えませんが更に「摩耶」が続きます。遠方は「羽黒」です。
「高雄」が没して70周年にあたる平成28(2016)年、この作品を「高雄」の艦内神社分霊元である護王神社に奉納しました。

作品仕様

制作年: 平成28年
技法: 鉛筆画
サイズ: 455×652mm(M15)
所蔵: 護王神社 所蔵

海征く牙狼 -重巡洋艦 加古 2602-

「加古」は、昭和17(1942)年の第一次ソロモン海海戦で、第八艦隊旗艦重巡洋艦「鳥海」に率いられた第六戦隊(青葉・加古・古鷹・衣笠)の構成艦として、敵艦隊と壮絶な夜戦を繰り広げました。日本側に喪失艦はなく、一方の連合軍は重巡洋艦4隻・駆逐艦1隻が沈没、重巡洋艦・駆逐艦各1隻が大破という結果となり、日本側の圧倒的大勝利でした。しかしその翌日、突如潜水艦による雷撃を受け、艦首、艦中央部、艦尾に1本ずつ魚雷が命中し、僅か5分で沈没しました。その時、対潜警戒のための「之の字運動」 をすることなく航行中でした。
作品は「青葉」から眺めた第六戦隊で、後続する「加古」以下、「古鷹」「衣笠」が艦隊行動をとる様子を描きました。先行艦に合わせて取り舵を切り、その航跡を乗り越えるダイナミックな場面です。
「加古」が没して75周年にあたる平成29(2017)年、この作品を「加古」の艦内神社分霊元である日岡神社に奉納しました。

作品仕様

制作年: 平成29年
技法: 鉛筆画
サイズ: 455×652mm(M15)
所蔵: 日岡神宮 所蔵

龍は激浪を越え 吽形 -航空母艦 飛龍-

「飛龍」は、2計画(第二次補充計画)に基づき建造された中型空母です。当初は「蒼龍」型の2番艦として計画されていましたが、軍縮条約破棄により設計の自由度が増し、様々な改善がなされた結果、「蒼龍」とは全く異なる外観的特徴を持つ空母となりました。
大東亜戦争序盤、大日本帝国海軍の主力空母の1隻として、真珠湾攻撃を始め主要な作戦に従事しました。
昭和17(1942)年6月のミッドウェイ海戦では、「赤城」「加賀」「蒼龍」が失われる中でも、山口多聞少将の指揮下で奮戦し、アメリカ空母「ヨークタウン」を航行不能にする戦果を挙げました。しかし「飛龍」も被弾による大火災で航行不能となり、駆逐艦「巻雲」によって雷撃処分され、山口司令官・加来艦長以下、数百名の将兵たちと共に海底へと没しました。

作品仕様

制作年: 平成29年
技法: 鉛筆画
サイズ: 652×910mm(P30)
所蔵: 個人蔵

龍は激浪を越え 阿形 -航空母艦 蒼龍-

「蒼龍」は、大日本帝国海軍が2計画(第二次補充計画)で建造した中型空母です。軍縮条約による制限を受けた上、建造中に第四艦隊事件(※)が起きたことで、強度確認のために艦体を輪切りにする大工事が行われるなど、幾度もの計画変更に見舞われ、その建造は多くの困難を伴いました。
大東亜戦争開戦以降、大日本帝国海軍の主力空母の1隻として真珠湾攻撃に参加し、以後も主要な作戦に従事しました。昭和17(1942)年6月5日、日本時間午前7時25 分頃、アメリカ空母「ヨークタウン」所属SBDドーントレス急降下爆撃機十数機の攻撃を受け被弾し、大火災となりました。艦は柳本艦長以下700余名を抱き、日没とともにミッドウェイ沖の海面から姿を消しました。
※艦艇の強度不足が問題視され、大幅な設計の見直しが行われるきっかけとなった、大規模海難事故

作品仕様

制作年: 平成29年
技法: 鉛筆画
サイズ: 652×910mm(P30)
所蔵: 個人蔵

双対の巨竜 吽形 -航空母艦 赤城-

「赤城」は、八八艦隊構想で計画建造された「天城」型巡洋戦艦の2番艦です。ワシントン海軍軍縮条約により新造戦艦の建造が制限され、「天城」「赤城」は、新戦力として注目されつつあった航空母艦に揃って改造される運びとなりました。しかし、大正12(1923)年の関東大震災で、工事中の「天城」が致命的な損傷を負い、急遽その代艦に選ばれた「加賀」と共に、空母として竣工しました。もともと巡洋戦艦として造られていたため、艦体が長く速度性能も高い、優秀な航空母艦でした。
大東亜戦争序盤は、第一航空艦隊旗艦として真珠湾攻撃、セイロン沖海戦等の重要な海戦に参加しました。
昭和17(1942)年6月のミッドウェイ海戦で「赤城」は、アメリカ空母「エンタープライズ」所属機の急降下爆撃により炎上し、艦内の弾薬が誘爆して航行不能となり、駆逐艦「嵐」「野分」「萩風」「舞風」によって雷撃処分されました。

作品仕様

制作年: 平成26年
技法: 鉛筆画
サイズ: 652×910mm(P30)
所蔵: 個人蔵

終焉の海へ -航空母艦 瑞鶴 2604-

「瑞鶴」は、大日本帝国海軍の航空母艦の完成形と称される「翔鶴」型航空母艦の2番艦として建造されました。大東亜戦争では、真珠湾攻撃を始め、珊瑚海海戦、第二次ソロモン海海戦、南太平洋海戦、マリアナ沖海戦などに参加し、空母機動部隊の主力艦として活躍しました。主要な海戦に参加しながら、大きな被害を受けず任務を遂行してきたことから、「幸運艦」「武勲艦」と賞賛されました。昭和19(1944)年10月25日、エンガノ岬沖で繰り広げられた激戦で、囮となる任務を達成し、その生涯を終えました。 作品は、その最後の戦いに先立ち、艦内残存機を発艦させる直前の様子を描いたものです。このすぐ後、エンガノ岬沖海戦でアメリカ艦載機の攻撃により沈没しました。
「瑞鶴」が没して70周年にあたる平成26(2014)年、毎年10月25日に「軍艦瑞鶴戦没者並びに物故者 慰霊祭」が斎行される橿原神宮に、この作品を奉納しました。

作品仕様

制作年: 平成26年
技法: 鉛筆画
サイズ: 455×652mm(M15)
所蔵: 橿原神宮 所蔵