国防の歴史をつなぐ艦内神社
日本では古来船(ふな)霊(だま)信仰と呼ばれるものがあり、航海や海上での仕事の安全を神々に祈願していました。そうした伝統の中で、船内に御神体や神札をお祀りする慣習が生まれました。古くは遣唐使船に天神地祇をお祀りする「神殿」が設けられ、留(る)学(がく)僧(そう)が祈禱を捧げていた記録が残っています。神道や神々が特定宗教のものではなく、あらゆる宗派を超えて日本人の基本的な心のよりどころとなっていたことも、ここから分かります。近代の大日本帝国海軍において、この慣習は「艦内神社」として発展していきました。軍艦に奉斎された艦内神社は、単に乗組員が参拝するための神棚というレベルにとどまりませんでした。香取神宮から分霊された戦艦「香取」艦内神社のように、そこからさらにサイパン島守備隊の守護神、香取神社として分祠した記録もあります(大東亜戦争中に焼失したが、戦後「彩帆香取神社」として再建)。
大正9(1920)年、当時最新鋭の戦艦「伊勢」に神宮別大麻(いわゆる伊勢神宮の特別御(み)神璽(しるし))を奉斎することが、初めて許可されました。これは神宮の分社同然の扱いで、それまで神宮別大麻は特定の神社のほか、日本から遠く離れた海外の公民団くらいにしか授与されませんでした。建国以来崇敬されてきた皇祖神をお祀りすることで、とりもなおさず先人たちのたゆまぬ努力により維持されてきた国土を護ることこそ国防であるという意識が改めて共有されたことは想像にかたくありません。大正13(1924)年には軍艦の艦内神社に対して、神宮神部署長の判断で神宮別大麻が無料頒布されるようになりました。さらに軍艦への奉斎が広まった昭和7(1932)年には、本来1尺1寸8分(約36センチ)であった神宮別大麻の長さを6寸(約18センチ)にするという異例の措置までとられます。そして昭和15(1940)年の「艦船部隊官衙學校等に於ける祭神奉斎に関する件」で改めて艦内神社の設置が義務付けられた際、「御祭神」は「天照大神ヲ主神トシテ神座ノ中央に奉斎ス」と定められました。
さて、当時の写真で見られる艦内神社は、神社本殿を模して白木で造られた宮(みや)形(がた)の神棚状のものであることが多いです。各家庭の神棚でも、三社造り(各神社の神札が横並び)の場合は中央に神宮大麻、向かって右に氏神神社(地元の神社)の神札、左に崇敬神社(日常信仰する神社)の神札がお祀りされます。前出「艦船部隊官衙學校等に於ける祭神奉斎に関する件」では、「艦船部隊、官衙、学校名等ニ因ミアル神社若ハ其ノ所在 地ニ在ル神社ノ神祇ハ主神(筆者註:天照大神)ノ次位ニ配祀神トシテ奉斎ス」と書かれています。軍艦に奉斎された記録のある、古来海の守り神とされた厳島神社や武神として信仰された香取神宮、そして東郷平八郎元帥をお祀りする東郷神社――すなわち海軍軍人に崇敬された神社を仮に「崇敬神社」とすれば、「氏神神社」はどういった神社が選ばれたのでしょうか。
地名由来の名をもつ軍艦は、その国(旧国名)/山岳/河川ゆかりの神社の神札が奉斎されました。そして戦時中以外は、その近くに寄港して艦長以下特別参拝などが行われ、地元名士たちも町村を挙げて乗組員を歓迎しました。またその際は艦内神社前に設置されている賽銭箱から回収した賽銭が奉納された例もあり、これは戦時下の多忙な時期にも艦載機で神社上空から賽銭を投下した記録が残っています。
中国では媽(ま)祖(そ)、西洋諸国においても船首像などを船の守護神とする習慣がありました。我が国では軍艦と神社とのその後の特別なつながり―場合によっては艦船が沈没した後まで―に特徴があるといえます。たとえば戦艦「大和」の守護神大(おお)和(やまと)神社(奈良県天理市)では戦後慰霊祭が斎行され、平成25年(2013)に「戦艦大和ゆかりの神社」碑と戦艦大和展示室が建設されました。戦艦「武蔵」の氷川神社(さいたま市大宮区)では、平成27(2015)年「戦艦武蔵の碑」が建立され、毎年顕彰祭が行われるようになりました。艦内神社の存在そして記憶は、大日本帝国海軍から海上自衛隊への継承のみならず、建国以来の国防の連続性を今も示し続けています。
帝国海軍軍艦慰霊顕彰会会長
『帝国海軍と艦内神社』著者 久野潤