鉛筆艦船画奉納の意義
古来、人は自らの前に横たわる広大な水域を越えることで、未知なる世界と交流し、知識を深め、技術を高め、そして文化を一層多様にしました。その賜物が長い時を経て、歴史として編み上げられてきたのです。人が船を手にして以来、世界は広がり、その交流の価値や目的も大きく変化していきました。
しかし、水域を越えるとは圧倒的な自然の中に命綱なしで飛び込むに等しく、常に命がけでした。また水域を越える理由も、常に友好的なものばかりとは限りません。死と隣り合わせで航海に挑む船乗りたちにとって、心のよりどころが神的存在となることは、ごく自然な流れだったと言えます。時代や地域を越え、船乗りたちは各々の信仰する神々に、航海の安全を祈り続けてきました。日本も例外ではなく、古くから、そのような信仰が根付いていました。明治以降、日本は海軍力増強に注力し、多数の艦艇を保有するようになりました。それら艦内にも、乗組員たちの信仰の形として神社が鎮座しました。艦と乗組員たちの航海の安全と武運長久を祈って祀られた艦内神社は、祖国を遠く離れて任務を遂行する兵士たちにとって、まさに祖国と自分たちをつなぐ「絆」と呼べる大切な存在だったのです。
大阪護國神社にて、元帝国海軍の艦艇の乗組員の方々と
しかし激戦の中、戦没した数多の艦と共に艦内神社も沈んでしまいました。戦時中は軍艦の動向は軍事機密であり、更に戦後のGHQ統制下であらゆる神社は過酷な状況に置かれ、分霊元ですらその事実について顧みる機会を失ったのです。残念なことに、昇神のなされぬまま海底に眠る艦内神社への然るべきお慰めが、今に至るまでほとんどなされていません。また分霊元の神社にも、社務日誌(社務日誌すら喪失している例もある)以外に明確な関係史料が少なく、分霊元と艦内神社とのつながりを詳らかにすること自体が、きわめて困難となっています。しかし、希望はあります。一部の学者や研究家の努力の甲斐あり、忘れ去られていたその「絆」が明らかとなる例もあるのです。そしてそのことがきっかけとなり、所縁ある艦艇の慰霊・顕彰祭が分霊元で斎行される動きも出てきています。
また、神社に崇敬が集まる道筋は、おそらく時代によって異なります。昨今、海軍に関連するゲームやアニメの流行により「聖地巡礼」と称し、ファンが分霊元など所縁ある神社を参拝する事例も増えつつあります。そのようなファンが参拝した折に、その神社の境内に目に見える形で分霊した艦との所縁を示すものがあれば、きっとそれは神社への崇敬に結びつく一つの道筋にもなり得ると思うのです。
護王神社にて
私は、描いた鉛筆艦船画を艦内神社の分霊元へ奉納する活動を地道に続けております。ただ、作品を奉納しても、御神霊の帰還は叶いません。しかしこの活動を通し、いまだ水底に鎮座する艦内神社と分霊元神社との本来強いはずの「絆」を、目に見える形で後世に伝えていく一助にはなれると信じております。
分霊元への帰還が叶わなかった艦内神社の御神霊、艦と共に戦い散華された英霊たち、そして戦没艦船の船霊の慰霊顕彰のため、今後も末永く絵画制作と奉納活動を継続してまいります。そしてそのことが、先人たちが長い時間をかけて編み上げてきた歴史・文化に、参拝者が興味と敬意を抱かせるきっかけとなり、神社の御祭神への崇敬に昇華する、そのほんの踏み台にでもなることこそが、絵画奉納の意義なのです。
靖國神社・奉納展示
Art Studio 楓-fu- 代表
鉛筆艦船画家 菅野泰紀