21世紀の日本に生きる、戦艦「大和」の遺産
この問いに率直に答えるならば、その答えは兵器です。平時には抑止力として領域を守り、有事にはその火力で敵を排除する。これこそが軍艦たちが持つ本来の使命で、なおかつその存在意義でもあります。敵国・仮想敵国よりも優れた軍艦を保有すること、つまるところ「常に1番であること」を目指し続ける努力こそが、当時の世界の軍事バランス維持には欠かせず、国家間のライバル意識や危機感がかつての世界的な軍拡競争の原動力となりました。その潮流は、国家財政を圧迫し、ひとたび戦争が勃発すると大きな犠牲を生む事にもつながりました。これは、歴史の中で常に人類が背負ってきた業とも言えます。しかし、この側面だけに注視していては、十分に本質を理解できないのもまた事実なのです。
軍艦の建造は国・軍主導で、最先端技術を惜しみなく使って進められてきました。また、軍艦群を稼動状態で維持することも、国家はもちろん多様な専門家たちのたゆまぬ努力の上に成り立っていました。これが既存技術の熟成と、多くの新技術誕生と発展につながったのです。
日本の軍艦史、特に戦艦建造史を紐解くと、「守」「破」「離」の流れを見ることができます。帝国海軍が産声を上げた明治初期、当時の日本には世界に通用する軍艦を建造する十分な技術も環境もなく、海外から軍艦を購入することで、既存の技術を底上げし、新技術をそこから学び取りました。日清、日露戦争で日本側を勝利に導いた主力艦艇たちのほぼ全てが外国製でした。それらの維持、修理、改装によって培われた技術は、更に独自の工夫が加えられ、遂には独力で主力艦を建造できるまでに高められました。これがまさに「守」の時期です。その後、日露戦争時、喪失した主力艦を自力で補填できなかった苦い経験から、装甲巡洋艦「筑波」を皮切りに主力艦の国産化を推し進めました。これが「破」の時期と言えます。しかし世界水準の高さを痛感した日本は、超ド級巡洋戦艦「金剛」をイギリスへ発注します。この際、多数の日本人技師も建造に携わり、全設計図も日本に渡され、極めて好条件で建造が進められました。そこで日本は官だけでなく、民間造船所にも同型艦の建造を発注し、官民ともに世界最高レベルの主力艦を建造できる素地を築いたのです。以後、日本は独自の設計・運用思想に基づき、「長門」型「大和」型と、世界一の座に君臨する戦艦群を建造する「離」の段階へ至ったのです。
確かに、軍艦の建造は技術レベル向上に大きく貢献しました。しかし、一方でその多くが国・軍主導で進められた、ドンブリ勘定とスケジュール遅延が当然という悪い常識に支配されたものでした。また建造に関わる資材も特注品ばかりで、非効率極まりない状況だったのです。これに一石を投じたのが、戦艦「大和」の建造でした。誰もが経験したことのないこの大規模事業は、様々な変更工事が要請されたにもかかわらず、予定を6ヶ月も繰り上げて完了しました。この成果の背景には、西島亮二技術大佐の存在がありました。建造に先立ち西島は、保守的思想・技術に凝り固まった組織と現場で大規模な改革を進め、更に「大和」建造では造船において初めて科学的なプロジェクト管理(工数管理)を実現させました。徹底的に無駄を省き、現場の動きを詳細に把握し管理したことで、優秀な労働者を持つ生産現場に合理的な生産方式を導入すれば、生産性は飛躍的に上昇することを証明して見せました。また、従来とは比べ物にならないほどに厳密な規格化を推し進め、工作や作業の効率化と、残余資材の転用を可能としたことで、桁違いの経費削減を実現したのです。逆風吹き荒れる状況下でも、彼は確実に成果を上げることで、革新的でなおかつ徹底した生産管理を「大和」建造の現場に導入することに成功したのです。
そのような経緯の末に完成した世界最大の戦艦「大和」でしたが、大東亜戦争中に戦艦として活躍する場は最後までなく、姉妹艦「武藏」は捷一号作戦中の昭和19(1944)年10月24日、「大和」は天1号作戦中の昭和20(1945)年4月7日にいずれもアメリカ軍艦載機の波状攻撃により最期を迎えました。その最期は戦いのあり方が戦艦中心から航空機中心へと変わったことを象徴する出来事でした。
一部には「大和」を世界三大無駄の1つと揶揄する向きもあります。しかし、果たしてそうでしょうか。各地で部隊が玉砕し、海軍も壊滅、日本の主要都市は連日連夜の空襲で焼け野原となり、数多の犠牲を払い大東亜戦争は終わりました。にもかかわらずそれから70余年、日本は戦後の復興にとどまらず、劇的な成長を遂げました。物は破壊されましたが、幸いに人材が残っていたからです。激動の時代を越えて蓄積された先人達の様々なノウハウが、彼らによって継承され、精錬されてきたからこそ、それは成し遂げられたのです。限られた国力の中であっても、列強に衝撃を与えた零式艦上戦闘機や戦艦「大和」を造り得た、先人たちの創意工夫と試行錯誤が、戦後に大いに生かされたと言っても過言ではありません。
西島亮二は呉工廠のみならず、様々な造船の現場で生産管理の導入に尽力し、彼の指導を受けた者たちは戦後、日本の産業界をけん引する存在となりました。造船業はもとより、トヨタを始めとする自動車産業、そして日本を代表する様々な分野の企業が「大和」建造由来の生産管理システムに注目し、それらを基に生産や業務の効率化を図りました。その理念は、今日の産業界ではすでに常識となっているものばかりです。
戦艦「大和」に導入されていた技術が、今日でも活用されている例がいくつかあります。東京都内の某有名ホテルの回転展望レストランは「大和」の主砲塔(2,800t)を旋回させる精密なコロの技術がそのまま転用されています。また、その主砲塔の旋回、砲身の上下動、揚弾に用いられた水圧式動力構造のノウハウは、原子力発電所の原子炉圧力容器の漏れをチェックする水圧実験に活かされています。そして、かつて46㎝砲を作った巨大旋盤(全長25m、幅3m、重量150t)は大型船舶のクランクシャフト製造の現場で今なお活躍しています。他にも、最大射程42㎞にも及んだ主砲の照準用の15m測距儀は日本光学工業(現ニコン)による一品で、その製作と緻密な調整によって培われた技術は、戦後の日本製精密光学機器の発展を下支えし、精密な研磨技術も半導体加工に応用されています。更に近年では、「大和」の究極の平和利用と言えるような出来事がありました。海軍発祥の地、宮崎県日向市に新エネルギー研究の一環として太陽炉(太陽光を集めて熱を利用する)が造られ、その太陽炉に光を集める鏡として戦艦「大和」の探照灯用に製造された反射板が用いられたのです。使用済みの酸化マグネシウムを再利用可能な状態に効率的に還元することができれば、エネルギー問題に革命をもたらす可能性があります。そのような前向きな研究に、「大和」が70余年の時を経て貢献しているというのは、とても感慨深いものです。こうして見ると「大和」はある意味、戦後にこそ生きているような気がします。
さて、私たちは、武器である日本刀に、武具である甲冑に、要塞である城郭に、ある種の美を見出します。しかし、軍艦たちに対しては、そのような美を感じるよりも戦争の悲惨さを感じることが多いのではないでしょうか。確かにそのことは理解すべき厳然たる事実であり、否定されるものではありません。しかし同時に、軍艦たちの姿には時代ごとの背景を写し、当時の人々が苦悩し作り上げた構造美を見出すこともできます。単なる兵器と断じる前に、その歴史的な背景、建造や運用に携わった先人たちの存在、そして今につながるその流れにも目を向ければ、より公平に軍艦たちをみつめることができると思うのです。
Art Studio 楓-fu- 代表
鉛筆艦船画家 菅野泰紀